脳内ライブラリアン

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診断研究を臨床に用いる際の注意点 -spectrum biasとverification bias-

臨床推論を考える上で欠かせないのが、感度・特異度/陽性尤度比・陰性尤度比を調べる診断研究です。そこに関わるspectrum bias(スペクトラムバイアス)とverification bias(検証バイアス)について、日本語で調べてもあまりネットにまとまって載っていなかったので、まとめてみます。診断研究が自分の患者にどこまで応用できるのか判断する際に必要な知識なので、臨床応用を前提としながら説明していきます。

 

目次:

 

診断研究の値は実際の臨床とどう解離するか

診断研究では感度・特異度と陽性尤度比・陰性尤度比が求められます。臨床推論では主に陽性尤度比・陰性尤度比を用いて、検査前確率から検査後確率を推定します。この辺は前にも記事にまとめました。 

medibook.hatenablog.com

 

では、診断研究で出てきた数値を自分の患者に当てはめて、そのまま使ってみても良いのでしょうか。

 

その際、何に注意をすべきかを知るためには、何によってそれらの尤度比が変わりうるかを知っている必要があります。以下ではバイアスなどを含めて、それぞれの場合にどう数値が変わるかを見ていきます。

 

そもそも陽性尤度比とは?

そもそも尤度比がどうなると変化しうるのか具体的な数値を見ながら考えてみます。陽性尤度比、陰性尤度比は裏表の概念なので、今回は分かりやすくするため陽性尤度比のみに話を絞って説明します。

 

感度・特異度の基本的な算出方法はこちらを参照ください。

1-1. 検査精度 | 統計学の時間 | 統計WEB

 

例えば以下のような数値の検査結果が“臨床現場に則した”診断研究から得られたと考えてみます。

f:id:medibook:20201214065050j:plain

1000人規模の診断研究の結果ですね。下の欄に着目するとこの疾患の有病率は100/1000=10%であることがわかります。

 

感度と陽性尤度比を計算してみると

 

感度=80/80+20=80%

陽性尤度比=80/100÷90/900=8

となります。

 

一般的な数値としては、なかなか優秀な検査と言えると思います。ここで当然のことながら感度の計算をみてみると大事なのは「疾患あり」の群の検査陽性・陰性比率であることが分かります。感度は陽性尤度比の分子であるため、陽性尤度比もその影響を受けます。

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続いて、診断研究の内容によってこの数値がどう変化しうるかみていきます。

 

症例対照研究のように患者を集めてくるとどうなるか

まず、先程の疾患あり・なしの群をコホートではなく、症例対照研究のように、あらかじめ疾患ありとわかっている群と健常者の群の別々から持ってくるとどうなるでしょうか。

 

こうなると、あらかじめ疾患ありとわかっている人たちを集めてくるわけなので、当然ながら疾患ありの群における検査陽性者の数は上昇します(検査が少しでも意味のあるものであれば)。となると、例えば疾患あり群の検査陽性者数は以下のように変動する可能性があります。

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計算をしてみると

感度=98/100=98%

陽性尤度比=98/100÷90/900=9.8

 

陽性尤度比は上昇します。なので、診断研究において患者を集める場合には全体を同じ患者層からとってくる必要があります。つまり、バラバラの患者層からとっている診断研究だった場合、実臨床に応用はできません

 

当たり前のことだと思いがちですが、意外と言葉にすると騙されがちで「この検査は疾患のある人では90%で陽性になります!健常者で陽性になる確率は5%です!」とかいうと、パッと聞いても対象となった患者群が一緒かどうかが分からないわけです。さもすごいように聞こえますが、両者を一緒の群からとってみると大して鑑別には使えないということも十分あり得ます。腫瘍マーカーなどがその好例でしょう。検診で患者を絞らずにむやみに測るのはやめて欲しいなあと思います。

 

『JAMA User's Guides to Medical Literature』*1では、別の患者層からとってくることは臨床試験におけるphase 2 trialと似たようなもので、最低限この状態でも結果を示せなければそもそもその検査の意味がないに等しい、ということだと説明されています。

 

患者層の有病率が変わるとどうなるか

続いて、患者層の有病率が変わるとどうなるでしょうか。診断研究で用いられている患者層と実際の臨床の現場の患者層は異なる可能性が大いにあります。先程の表では有病率10%の疾患と仮定しましたが、20%に増やしてみます。

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計算してみると

感度=160/200=80%

陽性尤度比=160/200÷89/711≒8

 

疾患ありの患者数は200人と増えましたが、黄色枠で囲まれた部分の比率は変化しません。よって感度は変わりません。特異度も表の縦軸で計算するため変化しません。

 

陽性尤度比は感度と特異度によって計算されるため、これも変化しません。

 

というわけで、患者の有病率が診断研究で用いられたものと臨床の現場が違っていても全く問題ないわけです。じゃあどんな診断研究でも応用できますね、、、というわけではなくて、やはり問題はあるんです。問題となるバイアスについて続けていきます。

 

重症な患者が多く含まれているとどうなるか-spectrum bias-

今までの流れから、基本的には表の縦軸の比率が重要であることが分かりました。つまり、疾患のある人たちで検査の陽性率がどの程度であるかが大事なわけです。

 

そこで検査が、患者が重症であればあるほど、陽性になりやすい場合(例えば、心不全におけるBNPなど)診断研究に用いられている患者層の重症度合いが、臨床現場の重症度合いと異なると問題となってきます。

 

例えば、救急現場での心不全患者においてBNPがカットオフ値以上となる陽性率と外来での心不全患者のBNPの陽性率はおそらく異なることが予想されます。救急現場であればより重症の心不全患者が多くやってくる(=陽性率が上がる)と思われるからです。

 

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(※値は実際の陽性率とは関係なく適当です)

 

つまり、その検査が重症度に応じて陽性になりやすさが変わるものである場合、診断研究が対象にしている患者層と自分がみている患者層の重症度に違いがないかは注意が必要です。これによって生じる違いをspectrum bias(スペクトラムバイアス)と呼びます。

 

自分の患者の方が陽性率が低いと予想される場合は、感度を差し引いて、陽性尤度比を下げる必要がありますし、逆の場合は陽性尤度比を上げて考える必要があります。

 

ちなみにBNPのように重症度と関連して連続的に変化する検査値の場合は、陽性・陰性の2値ではなく、分かるのであれば数値ごとの尤度比(数値が大きければより尤度比は大きい)を用いる方が良いとされています。

 

疑わしい人のみが詳しい検査をされるとどうなるか-verification bias-

診断研究において、疾患あり・なしがどのように判断されているかは非常に重要な問題です。そこが一番の根幹となるので、あり・なしがきちんと判断されていないとそもそも数値が何も当てにならなくなります。

 

例えば、心筋梗塞の診断マーカーであるトロポニンTの診断研究を考えてみたときに、全員が診断のgold standardであるカテーテルによる検査を受けているかは重要になります。

 

なぜなら、全員ではなくて疑わしい人のみがカテーテル検査をされていると考えてみると、トロポニンTが陽性であれば当然検査を受けるでしょうが、陰性の場合検査を受けない可能性があります。そうなると、トロポニンTの陽性者は検査を受けるため診断される確率が上昇します。言い換えれば、診断ありの群における陽性率が上昇するわけです。逆に診断なしの群の陽性率は下がります。こうして生じるバイアスをverification bias(検証バイアス)と呼びます。

 

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(※値は適当です)

 

縦軸でみてみると“疾患あり“、“疾患なし“の両群ともに影響を受けていることがわかります。それだけ問題点の大きいバイアスであると言えます。

 

ただ、検査の侵襲性が大きいとこうなる可能性は十分あるので、診断研究の限界として、結果を差し引いて考える必要があると思われます。

 

参考文献

*1『JAMA User's Guides to Medical Literature』

いつも愛用の一冊です。日本語版は翻訳が時折イマイチと最近買った後輩から指摘いただきました。長い一文だと難しいところもあるようですね。それほど読みにくくないので、英語版おすすめです。

 

*2『今日から使える医療統計』

verification biasについて一部記載あります。新谷先生はYouTubeでの動画も結構充実されていて、参考にしてます。説明も分かりやすいです。

認知症の診断から運転免許証の停止の流れについて思うこと

先日、第39回日本認知症学会学術集会がありました。

 

会場には行かず、オンデマンド配信を利用して動画を見まくっているんですけども、これ便利ですよね。正直学会に行っても、あんまり発表を長い間聞く集中力がないタイプなので(気付いたら意識を失っている)、こういう形で好きなときに、好きな時間だけ講演を聞けることはありがたい限りです。なかなか学術集会に足を運べない子持ちの医師にも向いているんじゃないでしょうか。

 

その中で認知症と自動車運転というシンポジウムがあって、聞いてみたのですが、今の「認知症と診断→免許停止」という際の流れって不満があるなあ、と認知症を診断する側の医師として思ったので、書いてみます。

 

半分くらい仕事の愚痴に近いかもしれませんが(汗

 

認知症となるとどのように免許が停止となるか

そもそもどのような流れで認知症の人が免許停止となるのか。まず免許更新時もしくは一定の交通違反を起こした際に75歳以上の方は認知機能検査を受けてもらう形になります。警察庁道路交通法改正時の案内はこちら↓。

 

認知機能検査について|警察庁Webサイト

 

3月12日スタート、改正道路交通法の主なポイント(その2) 運転免許を持つ75歳以上の方へ。 認知機能の状況に応じ診断や講習の機会が増えます。 | 暮らしに役立つ情報 | 政府広報オンライン

 

この認知機能検査は臨床現場で使うものとは少し別のものになります。ここで、引っ掛かると、免許の更新には病院の診断書が必要となるわけですね。そのため、引っ掛かった人は神経内科などの認知症を普段みている科に受診に来ます。ここで認知症と診断された場合、免許は停止となるわけです。

 

医師の診断で免許が停止になる流れについての問題

要するに医師の診断に最終的な判断が委ねられているわけですが、臨床の現場にいる一個人としては困ることが多いです。正直もう少し流れを変えて欲しいと日々思っています。主な理由としては三つあります。

 

理由1: 認知症は連続的に変化する疾患である

道路交通法で運転ができなくなる疾患は他にも、「てんかん」「脳卒中」などあるわけですが、この辺りの疾患は「発症した人」と「そうでない人」が明確なんですね。あるタイミング(てんかんであれば発作を起こし始めた時、脳卒中なら血管が詰まった時)から、その病気が発症したと線引きができるので、診断も比較的はっきりしています。てんかんは先行して何らか脳に素因がある場合や診断が難しい場合もありますが、認知症よりはまだはっきりしています。

 

これに対して、認知症は連続的に変化をしていく変性疾患です。脳の変化は症状が表面化してくるもっと前から起きており、どこのタイミングを発症とするか難しいところです。つまり、認知機能が落ち始めているな、と思っても、正常との境界に近い例では何とも言い難いのです。

 

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(図:脳卒中認知症の進行の比較)

 

もちろん明らかに認知機能がすごく落ちている例であれば、診断ということは容易ですが、それまで運転をしていたような人というのは境界例であることも多いです。

 

理由2:診断では運転の能力をみることができない

さまざまな診断基準に含まれる定義にも大抵の場合、「日常生活・社会生活に支障をきたすこと」が診断基準に入っています。つまり、その人の生活の状態によって認知症かどうかというのは変わってくるわけです。

 

例えば、代表的な診断基準であるDSMー5には以下のように記載されています。

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(日本神経学会 認知症疾患診療ガイドライン2017より引用)

Bには「毎日の活動において、認知欠損が自立を阻害する」とあります。

 

つまり定義のみに則れば

認知症だから、生活がうまくできない」

のではなく

「生活がうまくできないから、認知症

という診断になっているわけです。

 

そうすると、運転ができるかどうかというのも生活の機能の一部になってきますが、診断基準が上記のようである以上、認知症と診断できたら運転ができないかどうか分かる」わけではないんです。

 

認知症の診察において、もちろん記憶や注意機能、計算、書字、動作の異常などある程度は診察の場でみることはできますが、「運転」というかなり複合的な行為について評価は正直できません。

 

そもそも認知症の人が運転してはいけない理由というのは、「事故を起こしやすいから」というものであるはずなので、それならば診察の場での記憶力や計算能力なんかよりも、一番大切な運転能力の評価を免許試験場などですべきではないでしょうか。

 

理由3:免許を止めることが高齢者と交通事故にとって、「どの程度まで」有益となっているかが分かりにくい

理由1でも書いた通り、明らかに認知機能がすごく悪い人に禁止を命じるのは、事故の防止に効果があると思いますが、境界例の人にそれを命じることは果たして自分がやっていることが本当にその人の生活や事故の防止という面で有益なのかが自信はもてません。

 

都市部はいいんですけれども、車社会の郊外などでは通院や買い物に車が必須ということも多いです。バスを乗り継いで大変な時間をかけて、挙句病院で長時間待たされながらも通院するような生活は正直推奨し難いところがあります。また、移動できなくなることによって人との交流が減ってしまうことも心配です。

 

その辺の微妙な例に対する免許の停止が果たして良いのかどうか、データによるフィードバックもされないため、自分の判断を改善することもできません。

 

この点でさらに問題なのは、大抵の場合、こうした認知機能と免許の問題で受診に来るのが初診の患者さんばかりだということです。

 

家族背景や生活の状態、既存の疾患なんかも全く知らない人たちです。開業医さんからの紹介でいきなりやってきて、少しの診察をしただけで「もう車の運転はできません」と言わなければいけないわけです。

 

もちろん、それなりの覚悟をして準備をしている人であれば良いんです。他の家族と一緒に来て、「免許無しになっても色々移動を手伝うから大丈夫だよ」と声をかけてくれる家族なら問題はありません。ただ実際一人や夫婦で来られる方も多いんですね。そこで、準備をされていない方であると結構もめます。稀ですが、キレる方もいます。

 

ただでさえ外来の時間もあまりない中で、言い争いや沈黙の時間が流れていくのはきついものがあります。地域包括支援センターへ相談をお願いしたりもしますが、こうなってから相談するより、あらかじめ準備する方が遥かに楽でしょう。

 

今後改善を期待したい点

認知症が連続的に変化する病気である点は変わりようもないので、せめてシンポジウムでも言われていたように、運転シミュレーション検査など、より実際の状況に則した形での評価をお願いしたいです。診察ではみることができないので、、、。

 

また、免許停止となる可能性について十分に感じておられない高齢者のドライバーの方がまだまだ多くいます。免許試験場で引っかかった時点で、車がどこまで必要な生活なのか、状況に応じて早期に周囲に相談することを推奨いただきたいと想います。

 

そして、開業医の先生は、かかりつけでない患者さんは仕方ないですが、「免許更新の認知機能検査で引っかかったようです。お願いします。」だけの内容ではなくて、生活背景などわかる範囲で書いていただけると助かります。

 

運転している高齢者の方もしくは高齢の家族を持つ方へ

75歳以上となると免許の停止となることも多いです。都市部なら良いと思いますが、車社会の地域にお住みのようであれば、数年前から徐々に「運転できなくなったら生活をどうするか」と早めに考えていただきたいと思います。

 

認知症かどうか、ということは上に書いたように極めて線引きのしづらい概念なので、生活は大丈夫そうに見えても、免許がなくなる可能性は十分にあります。急な変化で困ることがないように早めに生活の環境調整を考えてみていただきたいです。

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる④

前回までは、事物の存在について書いてきたので、続いては自分以外の人の存在についての話を書いていきます。

 

前回までの記事はこちら 

medibook.hatenablog.com 

medibook.hatenablog.com 

medibook.hatenablog.com

 

目次:

 

他者と事物の存在の共通点と相違点

まず、事物の存在と同じところから説明していきます。

 

ハイデガーは他者という存在は、前回のような事物の存在の関係性の中に組み込まれていると述べています。例えば前回出てきたハンマー〜家まで繋がる有意義連関でいえば、「ハンマーを作った人」という形で何らかの人が関わっているわけです。

 

ただ、こうした他の人というのは、これまでの事物の存在と同様に、決して「主観」があって、そこから決まっていくものではありません。有意義連関の中に自分や他者もあらかじめ入っており、その中で、出会うものだ、というようです。『存在と時間』の中での例を引用してみます。

 

たとえば、職人の仕事世界のような身近な環境世界を「記述」したときに、使用中の遊具にともなって、その「製品」が予定されているほかの人びとも「一緒に出会う」ということが明らかになった。(中略)これと同様に、使用される材料をみれば、そこにはこの材料の製造者や「供給者」が「サーヴィスのいい」人とか「サーヴィスのわるい」人とかいう姿で居合わせている。(*1 p.258より引用)

 

ハイデガーは職人の例が好きだなあ、と思いますが、今や物を作っている人との距離感はとても遠くなってしまっているので、「誰々が作った靴」というような例はいまいちピンときません。続いての文章の方がわかりやすいかもしれません。

 

いま利用している本は、どこかの店で買った本とか、だれかに贈られた本とかである。湖岸につないであるボートは、それで周航を試みる知人を、もともとから指示しているし、またそれが「見馴れぬボート」である場合にも、ほかの人びとを示唆している。(同上)

 

つまり、前回までで説明していた事物の存在と同様に、他のものとの様々な有意義連関で形成された世界のうちで人と出会うわけです。

 

ここまでは事物の存在と同じところですが、人が事物と異なるのは、それぞれが現存在である、ということです。

 

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(人のみが自分はどういう存在かを問いながら存在する)

 

物や人の間で様々な指示関係が行き交う中で、人のみが「自分はどういう存在か」を自問します。最初の記事で書いたように、人のことをわざわざ“現存在“と呼ぶのは、「自分の存在を自ら決めていく」という理由からでした。ここが事物と異なる大きなポイントです。

 

ほかの人々は共同現存在である

このように、自分だけでなく他の人もそれぞれ現存在として存在しています。よってハイデガーは以下のように述べます。

 

世界はいつもすでに、私がほかの人びとと共にわかっている世界なのである。現存在の世界は共同世界(die Mitwelt)である。内=存在は、ほかの人びととの共同存在(das Mitsein)である。ほかの人々の内世界的な自体存在は、共同現存在(das Mitdasein)である。(*1 p.260より引用)

 

ほかの人々のことを共同現存在と呼んでいます。

 

「ほかの人びとと共にわかっている世界」というと何がどうわかっているのか、分かりにくいと思いますが、*2の入門書を見ると何となく理解できます。フッサールハイデガーの師匠)の現象学における「間主観性」を近いものとして提案しながら説明しています。

 

間主観性」というのは、対象の認識が単独の主体の中でのみ成り立っているわけではなく、他の主体と同じ様に、普遍的な仕方でその対象を認識するよう各主体が仕向けられている事態を指す言葉である。「私」たちは、目の前にいる「犬」とか「木」といった対象を、他の主体を同じ様に認識しており、そのことを言語とか身振りとかで確認することが可能である。言わば、主体(主観)の中に「他者」の感覚が入り込んでいるわけである。(*2より引用)

 

考えてみれば、物の名前や言語の使い方なども生まれたときに周りにいる人間(=共同現存在)から影響を受けて、覚えていくわけです。

 

また、自分がどういう存在か、ということも他者の影響を受けていきます。例えば「自分は賢い」「自分は頭が悪い」「自分は優しい」「自分は冷たい」ということも他者がいなければ決して成り立ちません。他人の感覚があってこそ、そういった世界が成り立つわけですね。

 

改めて他者と事物の存在の見方を考える

このように自分の世界は他者と共有する物なので、その意味で事物の存在と捉え方が少し異なります。事物の存在と他者の存在の捉え方を、それぞれハイデガーは以下のように呼びます。

 

事物 ー 配慮的気遣い

他者 ー 顧慮的気遣い

 

物は有意義連関の中で、「〜のために」役立つかどうか、という視点でみられます。これを配慮的気遣いと呼びます。それに対して人はそのような視点では本来捉えられません。人との関わりは、上記の例のように周りから自分の世界に影響を受けたり、あるいは逆に与えたりするような関係性にあります。これを顧慮的気遣いと呼んでいます。

 

ハイデガーはこの顧慮的気遣いには極端な形としては2種類あると言います。一つは他者から「気遣い」の可能性を奪い去る場合です。そうするとそれを受けた相手は依存的になり、支配を受けることになりやすいと言います。

 

過保護な母親なんかを考えると分かりやすいでしょうか。例えば友達と遊びに行くのを自主的に行おうとしている子どもに対して、その行動を制止する。そうすると止められた子どもは友達との交流や外に出て新しいことを学ぶ機会、それらを通じて自分という現存在を捉え直す可能性を失うことになります。これがその子どもの世界を構築する「気遣い」を奪い去るということではないかと思います。

 

もう一つの形は他者に「気遣い」を与え返す場合です「気遣いを与え返す」ってなんやねんと思うわけですが、相手が本来的に気遣うべきことを気づかせる、ということです。*2では医療現場でのインフォームドコンセントが例として挙げられています。

 

医師が患者にどのような状況にあって、どういう選択肢があるか知らせること、が「気遣い」を与え返すことだとしています。要するに自分の存在にとって大切なことを気づかせてあげる、ということでしょうか。

 

ハイデガーはこの二つの極端な形態が混ぜられながら普段は存在しているとしています。

 

この他者との関係性はもっと掘り下げたら面白そうですが、残念ながらこれだけしか述べられていません。

 

この二つの極端の間に、日常的相互存在が身をおいていて、そこにさまざまな混合形態が生ずるが、これらを記述し分類することは、われわれの考究の限界外にぞくする。(*1 p.268より引用)

 

他者との関係性は語れば一般的には面白そうなんですけどね。 

 

日常的現存在=世人である

ここまで事物と他者の存在の仕方を書いてきましたが、これを踏まえて日常的な現存在はどんな風に存在しているかという話に移ります。

 

日常的には現存在は他の人々との違いを気遣っており、人より遅れていれば取り戻そうとしたり、人より秀でていれば抑えようと腐心したりして、落ち着かない状態にいます。これを疎隔性ハイデガーは呼びます。

 

このことによって、現存在は他の人々のいわば司令下にあり、他の人々によって「自分がどういう存在であるか」ということを取りあげられてしまっています。このようなあり方を世人(das Man)ハイデガーは言います。

 

世人というあり方は、よく日常的に「みんなが〜といっている」「世間は〜だという」という時の、「世間」や「みんな」と同じようなあり方です。「みんな」という時の例を見てみると

スマホなんて、みんな持ってるよ」

「みんな旅行なんてこの時期行かないよ」

「みんなに知られたらまずいんじゃない」

というような感じで使われます。こうなると、ここで想像されるそれぞれの人は「自分がどういう存在であるか」と問うような存在の形は奪われており、「不特定の多数」とされてしまっています。現存在の日常的なあり方は「自分がどういう存在であるか」を自分が決めることが無視されており、同様であるわけです。

 

この世人は以下の三つの様相を持つとしています。

 

①疎隔性

先ほど述べたものです。

②平均性

平均的であることを目指す傾向。

③均等化

均等であることを望む傾向。

 

 

こうした特徴から“世人“は形成され、日常的にはこの“世人“という概念でほかの人を捉えています。例えば、「医師」「看護師」「検査技師」「放射線技師」「ソーシャルワーカー」などのように個人名ではなく「世間から決められた職」として病院内では扱われることがあります。その人がどういう存在であるか、という固有性は無視されるわけです。

 

このときには今までに述べてきたような存在論的な構造は考えず、他人は客観的な存在として捉えていきます。こうして存在の根本的な構造は覆い隠されて来たとハイデガーは述べます。

 

そして、この日常的な捉え方は非本来的であり、本来的な捉え方が別にあることを主張します。その違いは何なのか、ということは存在論をさらに深掘りしながら続いていきます。

 

参考文献:

*1『存在と時間 

今回は第二五〜二七節でした。ちなみにこのちくま書房ver.では「配慮的気遣い/顧慮的気遣い」ではなく、「配慮/待遇」と訳されています。入門書は皆「気遣い」と訳しているので、ちょっとそういう意味では読みにくいかもしれません。

*2『ハイデガー哲学入門ー「存在と時間」を読む』

【mechanism】機序【医学論文の英語表現】

論文の書き直しを進めているので、英語表現についての記事をまた進めていきます。

 

目次:

 

単語の意味と共起表現、クラスタ

日本語にもそのままなっていますが、メカニズム・機序という意味ですね。コーパスではfor, ofなどと相性が良く一緒に用いられているようです。日本語にも浸透している表現なので、同様の使い方であまり問題はなさそうです。用例で、形容詞との組み合わせを見ておくのが、実際書くときに役立ちそうです。 

用例

Since MOG-associated demyelinating disease is likely different from AQP4-IgG disease in terms of underlying disease mechanisms, relapse risk and possibly treatment,*1

disease mechanismだけで「病気の機序」という意味になりますが、Underlyingをつけることで、「背景となっている」という原因的な意味合いを強く持たせることができます。

 

The presumed pathogenetic mechanisms included large vessel infarction in 50%, arterial dissection in 15%*2

pathogeneticなど病態に絡む形容詞は相性が良く、頻繁に用いられています。以下も同様ですね。

 

Clinical characteristic features of these cases were analyzed, and possible pathological mechanisms were also described.*3

 

To confirm these outcomes, goal-targeted studies are recommended to exactly identify epidemiological scenarios and explore potential pathogenic mechanisms of these complications. *3

pathological, pathogenicなどですね。これから推定されていく機序などの話も含める場合は後半の例のようにpotentialなどの未確定であることを示す単語も良く使われます。

 

These tremor phenotypes may be associated with different underlying pathophysiologic mechanisms, requiring a different therapeutic approach.*4

ここにもunderlyingが出てますね。これもやはり未確定である機序について語る場合に良く使われるようです。

 

引用文献:

*1. Hamid SHM, Whittam D, Mutch K, Linaker S, Solomon T, Das K, et al. What proportion of AQP4-IgG-negative NMO spectrum disorder patients are MOG-IgG positive? A cross sectional study of 132 patients. J Neurol. 2017;264(10):2088–94.

*2. Kim JS. Pure lateral medullary infarction: Clinical-radiological correlation of 130 acute, consecutive patients. Brain. 2003;126(8):1864–72.

*3. Barah F, Whiteside S, Batista S, Morris J. Neurological aspects of human parvovirus B19 infection: A systematic review. Rev Med Virol. 2014;24(3):154–68.

*4. Zach H, Dirkx MF, Roth D, Pasman JW, Bloem BR, Helmich RC. Dopamine-responsive and dopamine-resistant resting tremor in Parkinson disease. Neurology. 2020;95(11):e1461–70.

医学統計を勉強していく上で、何が正しいのかよく分からなくなってくる話

研修医の先生と抄読会をしていく中で、論文内の統計的な内容について批判的な話をしていると(例えばprimary outcomeがソフト/ハードエンドポイントがぐちゃぐちゃに混合されてるとか)こんな風に言われました。

 

「統計的に確実なものっていうのを考えていくと、なんか何を信じていいか分からなくなりますね」

 

うーん、まあ確かに。そもそも臨床試験でよく用いられるオーソドックスな仮設検定の話でいくとそもそも有意水準5%で、5%は間違えてしまう可能性があるわけだし、P値は使わないようにしようという動きもあるわけで*1数値の変化の程度で話をした方が良いのだろうけど、それもまた実際自分の診ている患者にどれくらい当てはまるかというと、差し引いて考えないといけない要素が多いわけで、、、。

 

ただ、一つの論文だけ見てるとそんな気分になったりもするわけですが、ここは落ち着いてもう少し離れた視点で考えてみようということで、医学において「より確実に正しい」とはどう言えば良さそうなのか、ちょっと考えてみました。

 

目次:

 

 

医学は仮説演繹法の積み重ね

 医学的な疑問はまずどのように解決されていくのか、ということを考えると、多くは仮説演繹法と呼ばれる方法で行われます。仮説演繹法はよく使われる帰納法演繹法の両方を組み合わせたような論証法です。

 

それはなんやねん、という人には19世紀の医師ゼンメルヴァイスの例が分かりやすいです。ゼンメルヴァイスは細菌という概念が確立されていなかった19世紀中頃に産褥熱を予防するための「手洗い」を普及させました。そのために取られた方法が仮説演繹法でした。*2

 

まず、ゼンメルヴァイスは産婆が立ち会っていた病棟より、医師が取り上げた病棟の方が、産褥熱による死亡率が高いことに気づきました。さらに、死体解剖中に刺し傷をつくった同僚の医師が産褥熱と同じ症状が出たことに気づきます。

 

そこで、「死体に含まれる何らかの物質が、産褥熱を引き起こすのでは?」という仮説を立てます。そこから演繹して「手についた物質を洗い落とせば死亡率が下がるのではないか?」という予言(prediction)を生み出します。そこで次に実験です。手洗いをして、産褥熱の発生率が低下したかどうかを検証します。発生率が低下したなら、予言と仮説が正しかったことが言えます。仮説を演繹した上で、その正しさを検証するので、仮説演繹法と呼ばれるわけです。

 

実は普段の診断推論で用いているのも常に同じ方法です。*3鑑別診断による仮説を立てて、その診断が正しいかどうか検査を行って検証し、結果をみて仮説の正しさを示そうとするわけです。

 

これを何度も繰り返して、正しい理論を積み重ねることで今の医学理論が形成されていきます。

 

一つ一つの論文は大きな理論の枝の先のようなもの

個々の論文で出されている研究はランダム化比較試験だろうが、メタアナリシスだろうが、いずれも一つの仮説を検証するためのものです。ある治療Aがある疾病に効くのかどうか、ある検査がある疾病の診断に有効なのかどうか。まとめていくつもの仮説を確実に検討するような手段はありません。

 

そう考えると、大元にある疾患の理論を木の幹とすると、新しい一つの論文の結果というのはその枝先のようなものではないでしょうか。統計学的な正しさというのはそれぞれの結果をいかに頑強に結びつけるか、という点で大事なのであって、大元の理論の正しさを確かめるためには十分な検証の数と時間を要すると思います。

 

研修医の先生の疑問はその通りで、一つの試験の内容が統計的に胡散臭かったり、あるいは正しかったりしてもあんまり強く物事は言えないんじゃないでしょうか。

 

正しく積み重ねられた理論を見つけ出す

じゃあ正しく積み重ねられた良い理論っていうのはどういうものなのか。そこで、ラカトシュ・イムレ(1922-1974)という数学・科学哲学者が提案した研究プログラム説というものを参考にしてみようと思います。*4

 

ラカトシュのいう研究プログラムというものは「堅い核」と呼ばれる命題を中心に、補助仮説が「防御帯」をつくり、実験で間違った反証事例が見つかった場合、その防御帯を修正することで核を守ります。

 

反証事例を受けて、防御帯を修正しながらも続いていく研究プログラムが「新しい予測を成功させる」ことができれば、科学的だと言えます。こうしたことができる研究プログラムを「前進的プログラム」、そうでないものは疑似科学的であるとして「退行的プログラム」と呼びます。「退行的プログラム」はどこかで「前進的プログラム」にその核ごと取って代わられます。それがトマス・クーンの言っていたような科学革命が起こる根拠だと、ラカトシュは主張します。

 

例えば、パーキンソン病の病態というもので考えると「黒質の変性によるドパミン作動性ニューロンの死」が病態の中心であるという仮説は十分な成果を挙げている前進的なプログラムだと言えます。レボドパ製剤やドパミンアゴニストなどドパミンを増加させる薬剤が次々と生みだされ、成果を上げているわけです。ただ、これが全ての病態の中心かというと、そうも言い切れず、まだまだこれからこの核も変わる可能性があるわけです。

 

そうした大きな視点を考えると、大事なのは論文で語られるような実証実験がどのような仮説をもとにしているかということです。「前進的プログラム」かどうかはしばらく検討されなければ十分に分かりません。

 

なので

・メタアナリシスだから正しい

・二重盲検ランダム化比較試験だから正しい

・Lancet, NEJM, BMJ, JAMAに載ってるから正しい

・最新だから正しい

とはどれも言い切れないことが分かります。どのような仮説に基づいた試験で、その仮説が現在どれだけ詳しく検討されているかが大事なのだと思います。もちろん一つ一つの統計的な誤りがないかは確認が必要ですが、あくまで一つの仮説の整合性であって、かなり広い視点で見ないと全体像はわからないことに注意しないといけません。

 

特にこの話でいくと、後付けになるような結果の解釈はあまり良くないと言えます。理論はあるものの、結果をうまく予測するものではなく、結果を受けてひたすら補助仮説が変わっていくような「退行的プログラム」です。

 

以前記事を書いたトルリシティと認知症の関連についての話ですが、これも結果から後付けに他ならないので、少なくとも大きな効果を謳ってはいけないと思います。

medibook.hatenablog.com

最近のSGLT2阻害薬と心不全や腎機能の関連のstudyも安全性をみるための非劣性試験だったはずが、いつの間にか後付けが見出されすぎな気がしていますが、、、。段々と日本の医学雑誌でも「SGLT2阻害薬は心不全やCKDの患者に良い」と過度に一般化されたタイトルで記事が載せられているのが気になるところです。例えば初期のEMPAREG trialに関してマッシー池田先生からは厳しい指摘がされています。(ちょっと文言は過激ですが)

NEJMはブラック企業

 

直近のEMPEROR  reduced trialも最近読んでみました。慢性心不全患者にSGLT2阻害薬を用いたstudyですが、心血管死+心不全入院の複合エンドポイントを減らしたというだけで、心血管死そのものは有意差つかず、結局のところ利尿剤だね、という以上のものではないように感じられます。

 

後付け感の強い研究プログラムに関しては、なぜこのような力が働くのか裏側で働く社会的な力関係に気を配らないといけません。最近だと明らかにエビデンスの不足しているアビガンが緊急承認されたのもその例でしょうか。臨床研究における製薬会社との力関係は注意しすぎてしすぎることはないと思います。

 

ある分野で「正しい」「正しくない」の議論をしようと思うと、相当数の広い視野で論文を読み込まないと何も言えないようにも思います。ただ、薬を使う対象が患者さんという人間である以上、科学的に正しいかどうか分からない「より良いかもしれない薬」を使うよりは、年月を経て科学的に正しいと分かっている「ある程度は良い薬」を使う方が良いのではないでしょうか。もちろん他の手を使い果たした時や、個人の病態から想定される正しさがあれば、積極的に良い可能性のある薬を使うのは良いと思いますが。

 

結局、各分野ごとに膨大な文献が必要となるわけで、冒頭の研修医の先生の問いに答えるには、「我々には簡単にはわからないねえ、、、」というしょっぱい答えになってしまいそうです。

 

参考文献:

*1

www.nature.com

P値のみで議論すんなよ、って話です。安宅和人の『シン・ニホン』で引用されてました。

 

*2『科学哲学の冒険』

P.53あたりを参考。文系男子と理系女子の会話を通して対話形式で科学哲学とはどう言うものか学べる本です。自分たちが思うような疑問を疑似的に議論を通して学べるので、おすすめです。

*3

今月の主題 内科診断の本道―病歴と身体診察情報からどこまでわかるか?/medicina49/9

この先生の書かれた『誰も教えてくれなかった診断学』も読みました。診断ということを根本から教えるのは大学でも多少やったような気もしますが、一番必要な臨床が始まってからは誰も教えてくれないような気はします。良い研修病院だとこうした教育もきっちりやるんでしょうか。

*4『科学哲学講義』

P.133あたりを参考。研究プログラム説も決して完全な説ではなく、研究プログラムの枠組みが個人によって違ったり、曖昧さがあるところが批判されています。

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる③

前回は事物の存在が、ざっくり言えば、周囲のものとの関係性と自分のその都度の扱い方の中でつくられる話を書きました。距離だとか場所を表す空間の認識について、同様の捉え方ができることについて書いていきます。

 

前回記事はこちら

medibook.hatenablog.com

medibook.hatenablog.com

 

空間というと、例えば「自分から2m離れた先にテレビがある」と言ったように、客観的な数値で全て説明できるんじゃないかと思ってしまうけれど、「それも違いますよ」ということをハイデガーは言いたいようです。

 

目次:

 

デカルトによる身体・事物の条件

存在と時間』の中ではここで、デカルトの『省察』について触れています。デカルト心身二元論は「我思うゆえに我あり」を起点として、物の存在について考察していきます。*1

 

デカルトは、自分の感覚は曖昧なもので、感覚だけでは本当にものが存在しているのかどうか証明できないと考えました。例えば物の堅さや色、重さと言ったものは、感覚で捉えられますが、条件によって認識が変わってしまいます。デカルトの言葉をハイデガーは以下のように引用しています。

 

「なぜなら、堅さについて言うと、それについて感覚がわれわれに告げるのは、われわれの手が堅い物質の諸部分にむかっていくときに、これらの部分が手の運動に抵抗するということだけである。というのは、われわれの手がある部分に向かって運動するたびごとに、そこに存在するすべての物体が手の前進とおなじ速度で後退するとすれば、われわれはもはやいかなる硬さをも感じないであろう。」(*2 p.206より引用)

 

図で描くとこんな感じですかね。

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押す力と同じ力が他にかかって移動してれば、確かに堅さは感じないでしょうね、という話です。

 

そこで、結局のところ事物の本質は「長さ、幅、奥行きにわたる延長が、われわれが<世界>と呼ぶ物体的実体の本来的存在をなしている。(*2より引用)」というように「空間性」が事物の本来的な存在だと述べています。

 

ハイデガーによる空間の認識

それにたいしてハイデガーの言う空間は前回の環境世界の話と同様に、現存在と関係する形で解釈されます。

 

例えば、以下の絵で「クマのぬいぐるみはどこにありますか?」と聞かれた場合、どう答えるでしょうか。

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「タンスの前の床の上にあります」って言うのが標準的な答え方ではないでしょうか。

 

デカルトの言う「長さ、幅、奥行き」が物体の本質であるなら、本質的な答え方は「自分の下方170cm、前方120cmにあります」と言うような答えで、それを主観が捉え直して、先ほどの説明を作り出すわけですが、自然な状態での認識はどう考えても最初の例の方になると思います。

 

数値を用いて客観的に存在を捉えているように見えますが、実際はそれは本質ではないとハイデガーは考えているわけです。

 

客観的な数値が存在の本質ではないと言うことは他の例も用いて説明されます。例えば、数m先まで歩いて行こうと思ったとき、健康な状態の人が移動するのと、足の麻痺があって歩けない人で比べたら距離感はまるで違うはずです。*3それぞれの現存在の世界性によって空間の認識も異なるわけですね。この辺りはメルロ=ポンティが「身体性」という観点でより詳しく論じています。

 

あとは子供の頃に見た学校の教室や道具が、大人になってから見てみたらすごく小さく見えた、なんて言うのも、ハイデガーの言う空間の捉え方の違いを如実に捉えていると思います。選挙の投票なんかで小学校行くと特に感じますね。

 

空間も世界性に含まれる

距離など客観的な指標が考えられる空間においても前回紹介した世界の世界性の中に含まれるとハイデガーは主張します。こういった物の見方を繰り広げていくのがハイデガー流の実存的な物の見方なようです。

 

人はこうした実存的な意味での距離を取り払おうと「遠ざかりの奪取」*3を行い、自分と周囲の環境にとってちょうど良い実存的な距離を保てるようにします。『存在と時間』の中ではラジオがその例として出されていますが、現代的に言えばLINEやZOOMなんかでしょうか。

 

ただ、くどいようですが、この実存的な意味での空間性は人によって違うからといって、主観に全てが委ねられている(主観次第で空間はどうとでも変わる)と言うわけではありません。ここを勘違いされないように、ハイデガーは何度もそのことを述べています。

 

事物間に「客観的に」測量された間隔をめあてにしたりすると、ここに述べてきたような遠近の解意や評定を「主観的」なものと称することになりがちである。けれどもそれは、おそらく世界の「実在性」のもっとも実在的なものごとを発見する「主観性」なのであって、「主観的な」恣意とか、「それ自体で」は別の姿で存在するものについての主観主義的な「見解」などとはまったくことなるものである。(*2 p.236より引用)

 

自分(=現存在)と他の周囲の事物たちの全てを関係させた上で、成り立つものなので、「主観的なものだけで」成り立つものではないと言うことだと思います。

 

さて、ここまでは事物と自分から形成される世界の作られ方を述べてきましたが、続いては自分以外の他の人々の存在はどうなのかについて論じていきます。

 

この調子だと今後すごく長くなりそうですが、この辺の「主観ー客観」という視点を新しく打開した、という点がハイデガーで一番面白いところかなと思っているので、それ以降は少し短めにまとめてみようと思います。

 

参考文献

*1『デカルト入門』

だいぶ端折りましたが、第二章で心身二元論と神の存在証明についてより詳しく触れられています。

*2

存在と時間 上』

今回は第一部、一編、第三章「世界の世界性」の第19〜24節あたりの内容でした。

*3

ハイデガー入門』

TEDの動画で英語学習⑥-Susan David: The gift and power of emotional courage

TEDで英語の勉強です。今回は負の感情と一般的に呼ばれるような気持ちとどう向き合うかという話です。

 

www.ted.com

 

聞き取りにくかった単語/解説

fraught world ひどい世界

inner world 内的世界 ⇄ outer world

I was praised for being strong 強いことを褒められた

financially and emotionally ravaged 経済的にも感情的にも荒んでいた

binging and purging 多食と嘔吐

relentless positivity 執拗なまでのポジティブさ

We nag our children 私たちが子供にガミガミいう

brings us to our knees 私たちを跪かせる、服従させる

outstripping しのいでいる、凌駕している

deemed legitimate 合法だとみなす、正当だとみなす

brooding, bottling and false positivity 塞ぎ込んだり、押さえ込んだり、偽のポジティブさ

authentic happiness  真の幸せ

discern はっきりと認める、識別する

signpost 道標

values aligned 価値観の一致

caveat 警告、注意

learn its contours その輪郭(外形)を学ぶ

 

長い動画だったので抽出単語が多いです(汗

 

fraughtは「ひどい、悲惨な」という意味ですが、通常はwithと一緒に使って「~に伴って、~をはらんで」と言う意味で使われることが多いようです。コーパスでもfraught with danger, fraught with perilなどが多く用いられています。ちなみにperilやdangerの違いがよくわかりませんでしたが、ここのページにうまくまとめられていました。

danger / hazard / risk / jeopardy / peril の違い | ER Synonym Dictionary Online

 

praiseは「ほめる、賞賛する」などの意味を持ちます。forを伴って、「〜について褒める」という意味合いになります。コーパスでは"praised for the lord"という表現がある程度多く用いられているようですが、これは「神を讃えよ」という意味で、何か奇跡的なことがあったときに使う一つの決まった表現ですね。

 

ravageは「破壊、荒廃」という名詞や「破壊する、荒廃する」という意味で使われます。emotionallyを伴って「感情的に荒む」という使われ方もよくするようですね。

 

bingeはハメを外して飲みすぎたり、食べ過ぎたりするときに使われるようです。binge eating, binge drinkingが典型的な例。過食症に近いむちゃ食い障害のことをbinge eating disorderと呼んだりします。~を飲みすぎる・食べすぎるという場合はbinge onの形をとります。purgeは粛清する、清めるなどの意味ですが、二つを組み合わせると、過食と嘔吐を繰り返す状態を指します。

 

nagはガミガミいう、苦しめるといった意味があります。atとともに自動詞で用いる場合もあれば他動詞の場合もあります。コーパスを見ると〜nag at meの形で〜が私を苦しめるという使い方が多いようです。

 

 

 感想

辛い感情も悪いものとは考えず、認めていきましょう、という話ですね。仕事でも患者さんの状態が思わしくないなど辛いことが最近多いのですが、常にそのことを考えていると本当に塞ぎがちになるので、せめて勤務外の時は忘れようと思いがちですが、必ずしもそうすることが解決にはならないのかもしれません。動画中でも冷蔵庫にあるチョコレートケーキのことを忘れようと思うと、余計に気になりますよね笑と言ってましたね。

 

動画内の“discomfort is the price of admission to meaningful life“って中々良い言葉で、そうした不快な感情も失くそうとするのは死人を目指すのと一緒と述べてました。ちょうど今読んでるハイデガーなんかも“気分“というものが自分の存在について考える基盤のようなものであることを語っています。

 

あと、この動画では、辛いときにはTipsとしてI'm noticing I'm feeling...という言葉を使うようにしましょう、と語っていました。自分の気持ちと自分そのものの存在を混同しないようにするということですね。すぐにでも役立ちそうなアドバイスです。