脳内ライブラリアン

脳内ライブラリアン

医療、統計、哲学、育児・教育、音楽など、学んだことを深めて還元するために。

MENU

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる③

前回は事物の存在が、ざっくり言えば、周囲のものとの関係性と自分のその都度の扱い方の中でつくられる話を書きました。距離だとか場所を表す空間の認識について、同様の捉え方ができることについて書いていきます。

 

前回記事はこちら

medibook.hatenablog.com

medibook.hatenablog.com

 

空間というと、例えば「自分から2m離れた先にテレビがある」と言ったように、客観的な数値で全て説明できるんじゃないかと思ってしまうけれど、「それも違いますよ」ということをハイデガーは言いたいようです。

 

目次:

 

デカルトによる身体・事物の条件

存在と時間』の中ではここで、デカルトの『省察』について触れています。デカルト心身二元論は「我思うゆえに我あり」を起点として、物の存在について考察していきます。*1

 

デカルトは、自分の感覚は曖昧なもので、感覚だけでは本当にものが存在しているのかどうか証明できないと考えました。例えば物の堅さや色、重さと言ったものは、感覚で捉えられますが、条件によって認識が変わってしまいます。デカルトの言葉をハイデガーは以下のように引用しています。

 

「なぜなら、堅さについて言うと、それについて感覚がわれわれに告げるのは、われわれの手が堅い物質の諸部分にむかっていくときに、これらの部分が手の運動に抵抗するということだけである。というのは、われわれの手がある部分に向かって運動するたびごとに、そこに存在するすべての物体が手の前進とおなじ速度で後退するとすれば、われわれはもはやいかなる硬さをも感じないであろう。」(*2 p.206より引用)

 

図で描くとこんな感じですかね。

f:id:medibook:20201205155629j:plain

押す力と同じ力が他にかかって移動してれば、確かに堅さは感じないでしょうね、という話です。

 

そこで、結局のところ事物の本質は「長さ、幅、奥行きにわたる延長が、われわれが<世界>と呼ぶ物体的実体の本来的存在をなしている。(*2より引用)」というように「空間性」が事物の本来的な存在だと述べています。

 

ハイデガーによる空間の認識

それにたいしてハイデガーの言う空間は前回の環境世界の話と同様に、現存在と関係する形で解釈されます。

 

例えば、以下の絵で「クマのぬいぐるみはどこにありますか?」と聞かれた場合、どう答えるでしょうか。

f:id:medibook:20201205160959p:plain

「タンスの前の床の上にあります」って言うのが標準的な答え方ではないでしょうか。

 

デカルトの言う「長さ、幅、奥行き」が物体の本質であるなら、本質的な答え方は「自分の下方170cm、前方120cmにあります」と言うような答えで、それを主観が捉え直して、先ほどの説明を作り出すわけですが、自然な状態での認識はどう考えても最初の例の方になると思います。

 

数値を用いて客観的に存在を捉えているように見えますが、実際はそれは本質ではないとハイデガーは考えているわけです。

 

客観的な数値が存在の本質ではないと言うことは他の例も用いて説明されます。例えば、数m先まで歩いて行こうと思ったとき、健康な状態の人が移動するのと、足の麻痺があって歩けない人で比べたら距離感はまるで違うはずです。*3それぞれの現存在の世界性によって空間の認識も異なるわけですね。この辺りはメルロ=ポンティが「身体性」という観点でより詳しく論じています。

 

あとは子供の頃に見た学校の教室や道具が、大人になってから見てみたらすごく小さく見えた、なんて言うのも、ハイデガーの言う空間の捉え方の違いを如実に捉えていると思います。選挙の投票なんかで小学校行くと特に感じますね。

 

空間も世界性に含まれる

距離など客観的な指標が考えられる空間においても前回紹介した世界の世界性の中に含まれるとハイデガーは主張します。こういった物の見方を繰り広げていくのがハイデガー流の実存的な物の見方なようです。

 

人はこうした実存的な意味での距離を取り払おうと「遠ざかりの奪取」*3を行い、自分と周囲の環境にとってちょうど良い実存的な距離を保てるようにします。『存在と時間』の中ではラジオがその例として出されていますが、現代的に言えばLINEやZOOMなんかでしょうか。

 

ただ、くどいようですが、この実存的な意味での空間性は人によって違うからといって、主観に全てが委ねられている(主観次第で空間はどうとでも変わる)と言うわけではありません。ここを勘違いされないように、ハイデガーは何度もそのことを述べています。

 

事物間に「客観的に」測量された間隔をめあてにしたりすると、ここに述べてきたような遠近の解意や評定を「主観的」なものと称することになりがちである。けれどもそれは、おそらく世界の「実在性」のもっとも実在的なものごとを発見する「主観性」なのであって、「主観的な」恣意とか、「それ自体で」は別の姿で存在するものについての主観主義的な「見解」などとはまったくことなるものである。(*2 p.236より引用)

 

自分(=現存在)と他の周囲の事物たちの全てを関係させた上で、成り立つものなので、「主観的なものだけで」成り立つものではないと言うことだと思います。

 

さて、ここまでは事物と自分から形成される世界の作られ方を述べてきましたが、続いては自分以外の他の人々の存在はどうなのかについて論じていきます。

 

この調子だと今後すごく長くなりそうですが、この辺の「主観ー客観」という視点を新しく打開した、という点がハイデガーで一番面白いところかなと思っているので、それ以降は少し短めにまとめてみようと思います。

 

参考文献

*1『デカルト入門』

だいぶ端折りましたが、第二章で心身二元論と神の存在証明についてより詳しく触れられています。

*2

存在と時間 上』

今回は第一部、一編、第三章「世界の世界性」の第19〜24節あたりの内容でした。

*3

ハイデガー入門』