マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる④
前回までは、事物の存在について書いてきたので、続いては自分以外の人の存在についての話を書いていきます。
前回までの記事はこちら
目次:
他者と事物の存在の共通点と相違点
まず、事物の存在と同じところから説明していきます。
ハイデガーは他者という存在は、前回のような事物の存在の関係性の中に組み込まれていると述べています。例えば前回出てきたハンマー〜家まで繋がる有意義連関でいえば、「ハンマーを作った人」という形で何らかの人が関わっているわけです。
ただ、こうした他の人というのは、これまでの事物の存在と同様に、決して「主観」があって、そこから決まっていくものではありません。有意義連関の中に自分や他者もあらかじめ入っており、その中で、出会うものだ、というようです。『存在と時間』の中での例を引用してみます。
たとえば、職人の仕事世界のような身近な環境世界を「記述」したときに、使用中の遊具にともなって、その「製品」が予定されているほかの人びとも「一緒に出会う」ということが明らかになった。(中略)これと同様に、使用される材料をみれば、そこにはこの材料の製造者や「供給者」が「サーヴィスのいい」人とか「サーヴィスのわるい」人とかいう姿で居合わせている。(*1 p.258より引用)
ハイデガーは職人の例が好きだなあ、と思いますが、今や物を作っている人との距離感はとても遠くなってしまっているので、「誰々が作った靴」というような例はいまいちピンときません。続いての文章の方がわかりやすいかもしれません。
いま利用している本は、どこかの店で買った本とか、だれかに贈られた本とかである。湖岸につないであるボートは、それで周航を試みる知人を、もともとから指示しているし、またそれが「見馴れぬボート」である場合にも、ほかの人びとを示唆している。(同上)
つまり、前回までで説明していた事物の存在と同様に、他のものとの様々な有意義連関で形成された世界のうちで人と出会うわけです。
ここまでは事物の存在と同じところですが、人が事物と異なるのは、それぞれが現存在である、ということです。
(人のみが自分はどういう存在かを問いながら存在する)
物や人の間で様々な指示関係が行き交う中で、人のみが「自分はどういう存在か」を自問します。最初の記事で書いたように、人のことをわざわざ“現存在“と呼ぶのは、「自分の存在を自ら決めていく」という理由からでした。ここが事物と異なる大きなポイントです。
ほかの人々は共同現存在である
このように、自分だけでなく他の人もそれぞれ現存在として存在しています。よってハイデガーは以下のように述べます。
世界はいつもすでに、私がほかの人びとと共にわかっている世界なのである。現存在の世界は共同世界(die Mitwelt)である。内=存在は、ほかの人びととの共同存在(das Mitsein)である。ほかの人々の内世界的な自体存在は、共同現存在(das Mitdasein)である。(*1 p.260より引用)
ほかの人々のことを共同現存在と呼んでいます。
「ほかの人びとと共にわかっている世界」というと何がどうわかっているのか、分かりにくいと思いますが、*2の入門書を見ると何となく理解できます。フッサール(ハイデガーの師匠)の現象学における「間主観性」を近いものとして提案しながら説明しています。
「間主観性」というのは、対象の認識が単独の主体の中でのみ成り立っているわけではなく、他の主体と同じ様に、普遍的な仕方でその対象を認識するよう各主体が仕向けられている事態を指す言葉である。「私」たちは、目の前にいる「犬」とか「木」といった対象を、他の主体を同じ様に認識しており、そのことを言語とか身振りとかで確認することが可能である。言わば、主体(主観)の中に「他者」の感覚が入り込んでいるわけである。(*2より引用)
考えてみれば、物の名前や言語の使い方なども生まれたときに周りにいる人間(=共同現存在)から影響を受けて、覚えていくわけです。
また、自分がどういう存在か、ということも他者の影響を受けていきます。例えば「自分は賢い」「自分は頭が悪い」「自分は優しい」「自分は冷たい」ということも他者がいなければ決して成り立ちません。他人の感覚があってこそ、そういった世界が成り立つわけですね。
改めて他者と事物の存在の見方を考える
このように自分の世界は他者と共有する物なので、その意味で事物の存在と捉え方が少し異なります。事物の存在と他者の存在の捉え方を、それぞれハイデガーは以下のように呼びます。
事物 ー 配慮的気遣い
他者 ー 顧慮的気遣い
物は有意義連関の中で、「〜のために」役立つかどうか、という視点でみられます。これを配慮的気遣いと呼びます。それに対して人はそのような視点では本来捉えられません。人との関わりは、上記の例のように周りから自分の世界に影響を受けたり、あるいは逆に与えたりするような関係性にあります。これを顧慮的気遣いと呼んでいます。
ハイデガーはこの顧慮的気遣いには極端な形としては2種類あると言います。一つは他者から「気遣い」の可能性を奪い去る場合です。そうするとそれを受けた相手は依存的になり、支配を受けることになりやすいと言います。
過保護な母親なんかを考えると分かりやすいでしょうか。例えば友達と遊びに行くのを自主的に行おうとしている子どもに対して、その行動を制止する。そうすると止められた子どもは友達との交流や外に出て新しいことを学ぶ機会、それらを通じて自分という現存在を捉え直す可能性を失うことになります。これがその子どもの世界を構築する「気遣い」を奪い去るということではないかと思います。
もう一つの形は他者に「気遣い」を与え返す場合です「気遣いを与え返す」ってなんやねんと思うわけですが、相手が本来的に気遣うべきことを気づかせる、ということです。*2では医療現場でのインフォームドコンセントが例として挙げられています。
医師が患者にどのような状況にあって、どういう選択肢があるか知らせること、が「気遣い」を与え返すことだとしています。要するに自分の存在にとって大切なことを気づかせてあげる、ということでしょうか。
ハイデガーはこの二つの極端な形態が混ぜられながら普段は存在しているとしています。
この他者との関係性はもっと掘り下げたら面白そうですが、残念ながらこれだけしか述べられていません。
この二つの極端の間に、日常的相互存在が身をおいていて、そこにさまざまな混合形態が生ずるが、これらを記述し分類することは、われわれの考究の限界外にぞくする。(*1 p.268より引用)
他者との関係性は語れば一般的には面白そうなんですけどね。
日常的現存在=世人である
ここまで事物と他者の存在の仕方を書いてきましたが、これを踏まえて日常的な現存在はどんな風に存在しているかという話に移ります。
日常的には現存在は他の人々との違いを気遣っており、人より遅れていれば取り戻そうとしたり、人より秀でていれば抑えようと腐心したりして、落ち着かない状態にいます。これを疎隔性とハイデガーは呼びます。
このことによって、現存在は他の人々のいわば司令下にあり、他の人々によって「自分がどういう存在であるか」ということを取りあげられてしまっています。このようなあり方を世人(das Man)とハイデガーは言います。
世人というあり方は、よく日常的に「みんなが〜といっている」「世間は〜だという」という時の、「世間」や「みんな」と同じようなあり方です。「みんな」という時の例を見てみると
「スマホなんて、みんな持ってるよ」
「みんな旅行なんてこの時期行かないよ」
「みんなに知られたらまずいんじゃない」
というような感じで使われます。こうなると、ここで想像されるそれぞれの人は「自分がどういう存在であるか」と問うような存在の形は奪われており、「不特定の多数」とされてしまっています。現存在の日常的なあり方は「自分がどういう存在であるか」を自分が決めることが無視されており、同様であるわけです。
この世人は以下の三つの様相を持つとしています。
①疎隔性
先ほど述べたものです。
②平均性
平均的であることを目指す傾向。
③均等化
均等であることを望む傾向。
こうした特徴から“世人“は形成され、日常的にはこの“世人“という概念でほかの人を捉えています。例えば、「医師」「看護師」「検査技師」「放射線技師」「ソーシャルワーカー」などのように個人名ではなく「世間から決められた職」として病院内では扱われることがあります。その人がどういう存在であるか、という固有性は無視されるわけです。
このときには今までに述べてきたような存在論的な構造は考えず、他人は客観的な存在として捉えていきます。こうして存在の根本的な構造は覆い隠されて来たとハイデガーは述べます。
そして、この日常的な捉え方は非本来的であり、本来的な捉え方が別にあることを主張します。その違いは何なのか、ということは存在論をさらに深掘りしながら続いていきます。
参考文献:
*1『存在と時間』
今回は第二五〜二七節でした。ちなみにこのちくま書房ver.では「配慮的気遣い/顧慮的気遣い」ではなく、「配慮/待遇」と訳されています。入門書は皆「気遣い」と訳しているので、ちょっとそういう意味では読みにくいかもしれません。