脳内ライブラリアン

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マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる①

久しぶりに哲学の話を書きます。あくまで素人視点です。

 

前回ニーチェの話を書いてからというもの、ほぼ同時代人であるマルティン・ハイデガーの本と入門書をゆっくり読んでいたわけですが、これがまた難しすぎて記事を書く気になりませんでした、、、。が、まあなんとか少しずつ読み進められてきたので、入門書たちの内容と『存在と時間』そのものの内容をちょっとずつまとめてみたいと思います。

 

目次:

 

なぜハイデガー

最近本屋にマルクス・ガブリエルの本が平積みされていること多いですよね。コロナ関連の話題にも積極的に関わっており、NHKの特番関連の本も出てます。何冊か読みました。

 

 

哲学関係の新書など見ると必ずしも「この人はめちゃくちゃすげー!」とはなってないわけですが、彼の提唱する「新実存主義」やそれより前の時代の「実存主義」、あるいはフーコーなどの「構造主義」と言った、いずれにも大きな影響を与えているとされるのが、マルティン・ハイデガーです。

 

いまや何でもビッグデータや統計、AIと言われる時代です。その方向はその方向で、個人的には好きなのですが、それだけではうまくいかないところもあるだろう、と言うことを学べるのが実存主義に代表される考え方ではないのかな、と思ってます。

 

哲学はどうしても具体的な意味合いが分かりにくいですが、ビジネスへの応用例としてクリスチャン・マスビアウの『センスメイキング』なんかは、志向性もなくデータの解析をするだけでは答えが出せないことをよく物語っています。この人は戦略コンサルティングを行なっていますが、人材としてデータ解析に強い理系の人のみならず、文系の人間を多く抱えており、その思考を生かした戦略を立てて、成功に結びつけているようです。

 

 

 

ハイデガーの思想は、第一次世界大戦後、大量の戦死者と敗北を期したドイツにおいて、人が固有の存在ではなく、ただの「1人」の人間として数字的に扱われ、将来への不安も渦巻く頃に生まれてきたものです。単なるデータとして扱われかねない現代においても十分通じる話があるのではないでしょうか。そんなわけでハイデガーです。

 

存在と時間』ってどんな本?

20世紀の哲学において最も重要な本と言われることもあるくらいの有名な哲学書です。前述のようにそれ以降多くの哲学者に対して賛同や批判をされてきました。それぐらい与える影響が大きかったということですね。

 

内容としては「存在とは何か?」ということを問う本です。

 

より砕いていえば「〜がある」「〜である」とはどういう意味を持つのか、その本質を捉えるための方法とその本質はなんなのかを論じたものです。

 

 

砕いて言ってもなお分かりにくいので、入門書書の例を使ってみます。*1では「鳥が存在する」ということを例に出しています。一度鳥を思い浮かべてみてください。

 

そこで、鳥を思い浮かべた時に、その鳥は「飛んでいたり」「木に止まっていたり」「餌をついばんでいたり」あるいは「自分の飼っている鳥」だったり「昨日公園で見た鳥」だったりするかもしれません。「鳥が存在する」と言った時に、鳥そのものだけを切り離して考えることは難しく、他の何らかの状態と関連して思い浮かべることしか基本的には出来ません。

 

では「存在する」というのはどういう意味になるのか?

 

もう一つの例ですが、「自分は〜である」というときに「〜」に当てはまるものを考えてみてください。

自分の場合、「父親」とか「医師」とかが当てはまるわけです。では、子どもがいなかったら、自分は父親ではないので、存在しなくなるのか?当然そうではないですね。同様に医師免許が剥奪されたら、存在しなくなるのか?それも違います。じゃあ自分とはどう言う存在なのか?

 

こんな感じのThe哲学らしいことを考える本が存在と時間』です。

 

普通に読もうと思うと死ぬほど難解です。

 

何が難解かといえば次々と繰り出される謎のハイデガーオリジナルの専門用語(術語と言われます)。例えるならばエヴァンゲリオンの劇場版を30%くらいまで濃縮して、それを前知識なくいきなり観たような感じでしょうか。術語と指示語が多すぎて何が何を意味しているやら分かりません。

 

おまけにこの本は未完です。

 

*1にこの本が書かれた際の、ハイデガーの細かな状況が分析されています。ハイデガーマールブルク大学の教授のポストに就く際に、業績を要求され、急ごしらえで書いた、とされています。印刷途中にそれを止めて書き直すようなこともしながら書いていたようですが、最終的には途中までで断念。

 

もともと上巻下巻の構成であったわけですが、実際出版されたのは第一部、第一篇〜第二篇までとなっており、タイトルに沿った「存在と時間性」という存在と時間との関連までは書かれていますが、最終的に存在の本質を明らかにするところまでは至っていません。

 

それでもなお、後続の哲学者たちに大きな影響を与えているのはそこまでに書かれた分析の大胆さと過去に問われなかった形で「存在」というものについて見直したことが大きかったのではないでしょうか。

 

存在を問うことに何の意味があるのか?

存在を問うということ(=存在問題)に一体なんの意味合いがあるのか。そもそもここから疑問に感じると思うのですが、ハイデガーはその理由を大きく分けて二つ挙げています。

 

一つは、現在でも幅を利かせる実証的学問(実験による証拠をもとにして語られる学問)において探求するものは何であるかを規定する際に、存在論が必要となる、ということです。

 

例えば、生物学であれば「生物」、言語学であれば「言語」、物理学であれば「物理」が研究対象の領域となりますが、その「言語」「生物」「物理」といった存在はどのように規定されるのか。ハイデガーの時代においては物理は運動法則を維持しながら、新しい理論を切り開こうとしており、生物は機械主義(生物の体を機械のように考え、各器官を説明する)と生気主義(自然科学では説明出来ない特別な法則で成り立っている)に則って生物とはどのようなものかという規定を新たにしようとしています。こうした学問の領域が変わっていくことは現代も同様で、分子生物学行動経済学などと言った新しい学問領域が誕生し、ノーベル賞を受賞するまでに至っています。

 

このような学問の探求する領域を新たに規定する際には「生物」とは何か?、「物理」とは何か?ということが改めて問われているわけで、その存在論を考えていくときに、この本が明らかにしようとしている「存在問題」というのが役立つと述べられます。

 

これを「存在問題の存在論的優位性」と言っています。こうしてどんどん分かりにくい術語が増えていきます。笑

  

もう一つの理由として述べられていることは、個人が自分の存在とはなんなのかを問うときに役立つという話です。

 

最初の例で出しましたが、人間は自分が何なのかと問う生き物であり、それを自分で決めていく(自分一人ではなく周りも関係しながらですが)生き物です。それを問う時に、存在の意味が分かっているとより自覚的に問うことができる、というような意味合いです。

 

これを「存在問題の存在的優位性」とハイデガーは呼びます。

 

存在的とか存在論的とか何が違うのかよくわからなくなりますが、*2を参照にして以下のように考えると分かりやすいです。

 

・「存在的」→「机とは何か」と問うとき、机なる存在者は木と釘と革から出来ている、と答えるような見方。その存在者の「何であるか」を事実関係として問題にする。「事実関係を問う」と置き換えればいい。

・「存在論的」→「机とは何か」と問う時、「そもそも実在物があるとはどういうことか」と問うような見方。「存在論的」とは「存在」それ自身が「何であるか」を問題にするような視点、という意味である。「意味本質を問う(ような)」と置き換える

竹田青嗣ハイデガー入門』より引用)

 

ハイデガーによる存在の問い方

そんな抽象的な問題を解決するのにどうやってやれば良いのか。

 

ハイデガーは「存在とは何であるか」と問うときのその構造に着目します(『存在と時間』第1章、第2節』)まず第一に、何かを問う時には必ず、問う側と問われる側、そして問われているものがあると指摘します。

 

例えば、「今日の天気は晴れですか?」と言われた場合、問う側は自分、問われる側は相手、問われているものは今日の天気ですね。ここで、問われているものは問う側によって規定されているとハイデガーは指摘します。

 

まとめるとこうです。

質問:今日の天気は晴れですか?

問う側:自分

問われる側:あなた

問われているもの:今日の天気

 

同様にして存在への問いを考えると

質問:存在とは何であるか?

問う側:人間(ここでハイデガーは現存在と呼びますが、何でそんな呼び方をするかは後述)

問われる側:存在者(普段存在していると思っているもの)

問われているもの:存在

 

この時、すでに問う側は質問の時点で「〜である」というものを何となく使っています。このように普段自分たちが日常的に使っている「〜である」のことを「存在了解」と呼びます。

 

図にするとこんな感じです。

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こうすると、問う側がまず存在についてある程度規定しているため、問う側である現存在のあり方を解明する必要があります。

 

そして、それをするには日常的に自分たちが存在すると思っている、「存在了解」を手がかりにして、明瞭にしていくことができるのではないか、と述べます。

 

さらにそうすることで存在者の存在が明らかになっていくと述べられています。

 

こうすると存在者の存在を明らかにするために、まず現存在の存在を明らかにするというのは、「最初の答えが最後の答えと同じじゃん!循環論法になるんじゃないの?」と、ハイデガーによる自分へのツッコミがあります。ハイデガーによる解明の方法は「AならばB」というような演繹法での証明とは異なるため、それは問題にならないと述べられています。*2の中での表現が分かりやすいですが、普段使っている「存在了解の内容」を徐々に明瞭化する、というイメージが近いといえます。

 

何でわざわざ現存在と呼ぶのか?

ハイデガーは人間を現存在(daseinと呼びます。このダーザインというワードはかなり有名だと思いますが、なぜわざわざそんな分かりにくい呼び方をするのか。

 

現存在に限らず、ハイデガーはやたらとオリジナル用語が多いのですが、それは読者に既成の概念から離れたイメージをもって欲しいからではないかと思います。人間というと一人一人の固有性が目立たず、ただの生物の種類のように感じられます。現存在と呼ぶ場合はそうではなく、他の物や動物と全く異なる存在であることが、強調されます。

 

何が違うかといえば、一つは人間が「自分の存在のあり方を問題にするような存在」(*2より引用)だから。「自分とは何なのか、どういう人間なのか(実存とも呼ばれる)」は周りによって決められているものではありません。自分でそこに関心を持ちつつ、変わっていくものです。こうした特性を強調するために、現存在と呼んでいます。

 

また、現存在は「自分とは何なのか」を問いますが、決して自分の見方や考えで全てが決まるというわけではありません。ハイデガーデカルトから始まる主観-客観を明確に二分するようなものの見方を否定しています。

 

ハイデガーは「実存」が各人の「意識」によってどのようにでも加工・変形できるものとは考えていない。それだと、極めて主観的な、文字通りの意味での“観念論”になってしまう。(*3より引用)

 

「自分の見方が変われば全てが変わる!」みたいな行き過ぎポジティブシンキングとはちょっと違うところですね。

 

「意識」とか「主観」という言葉を用いると、それもこのように誤解されてしまいがちなので、固有性も尊重しながら、決して独りよがりな視点ではない、という意味で現存在という言葉を使っているようです。

 

では、現存在はどのようにその存在を決めていくのか。ここからようやく本題に入っていくのですが、とりあえずまとめる気力が湧いたらまた書いてみます。

 

参考文献と感想

読み散らかした入門書たちを紹介しておきます。

 

*1 

現象学、実存思想を専門とされる先生で現在は防衛大学校の教授をされているみたいですね。冒頭の例えも含めて非常に分かりやすい入門書です。 一冊めとしてお勧めです。『存在と時間』出版当時の細かい状況まで分析され、解説されています。内容の流れは大まかに本の内容の流れに即しつつ、簡便な例えが多いので、理解できない部分の解釈に役立ちます。

*2

1番初めに読んだ本です。ニーチェ現象学についてもこの先生の本を読みましたが、いずれもわかりやすいです。ハイデガーの言っていることが分かりにくい、とツッコミを入れてくれながら、解釈を説明してくれている点が読者としては共感を得られます。そのため原文から外れた持論もちらほら出ますが、それはそれで面白いです。駆け足で『存在と時間』の内容を全て見ていくため、読み直してみると意味が汲み取れない部分もありますが、これも一冊めとしてお勧めしたいです。
*3

金沢大学で法学類教授をされている先生の著作。wikipediaみるとかなり本を出されていますね。ハイデガーは言葉にこだわりが強くて、さまざまな造語を作り出していますが、その造語におけるドイツ語の原義と意味合いの解説が他の本よりもさらに充実している印象です。また、宗教的な「回心」とハイデガーの「本来性」との関連の話も、何となく納得できるとこ路があり、読み方が広がります。二冊めとしてぜひ。

 

本文中には出してませんがこちらも買いました。正直言って入門というわりには、素人には分かりにくいところが多いです。ハイデガーは経歴から神学やギリシア哲学の影響を多く受けていることが分かるのですが、ハイデガーについてもわからないのに、さらにギリシア哲学についても説明無しに色々語られると尚更分かりません。今後読んでいく上で、役立つこともあるような気もしますが、個人的にはあまり合いませんでした。

 

原著はこちらを読んでます。翻訳ごとの違いについて語れるほど熟達はしておりません。ハイデガーはどうしてこんなに分かりづらく書けるのだろうと思いますが、読んでいくと嫌になりながらもまた読んでしまうような魅力があります。