マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる②
前回記事に引き続いて『存在と時間』を紹介していきたいと思います。
「存在を明らかにするためには、まず現存在(=個々の人間)について分析をする」という流れに基づいて、現存在とはどのように定義されるのか?、どのような意味をもつのか?を考えていきます。
目次:
現存在の根本契機は世界内存在である
さて、冒頭からよく分からない用語がまた出現するわけですが、現存在は「世界内存在」である、とハイデガーは語ります。
これは世界という客観的なものがあって、その中に存在しているという意味ではなく
「世界とは個々の人間によって現に生きられているその世界である」(*1より引用)
という感じです。
これだけだと本当にさっぱりと分からないので、それまでの考え方と何が違うのか、ハイデガーが挑んでいくデカルトの例を出しながら見てみましょう。
ルネ・デカルトとの比較
ルネ・デカルト(1596-1650)は近代哲学に大きな影響を及ぼした哲学者・数学者です。中でも「我思う、故に我あり」といった名言が有名となっています。ハイデガーが問題としたのはこの名言を含めた心身二元論にもとづく存在論のあり方でした。
『デカルト入門』*2によるとデカルトは数学を軸にして物理学的自然を客観的な世界として見るためには、それまで物事の本質だと思われていた身体の感覚を疑っていくことが必要だと考えていたようです。
そこで、不確実なものはどんどん疑っていこう、という過激な姿勢(普遍的懐疑)を取ることとなります。その結果あらゆるものは疑われる存在となりますが、最後に疑うように仕向けている自分自身の存在が残りました。それが「我思う、故に我あり」へとつながります。
かなり大雑把ですが、デカルト的な世界観はこれに影響されて出来上がっており、主観(精神)と客観(物質的なもの)を分けて捉える心身二元論となっています。主観と客観には区切り目がしっかりあり、私の存在の本質は物質ではない自分の精神によって捉えられると、考えたわけです。
この考え方は結構今にも尾をひき続けているもので、現代の会話でも
「客観的な証拠がない」とか
「それはただの主観的な意見だ」とか
主観=疑わしいもの、客観=確実で正しいもの、という印象が植え付けられています。
ハイデガーは世界をどう考えるのか
ハイデガーはこれに対し、「我あり」の「ある(=存在する)」とはそもそもどういうことなのかを問い直します。このとき、主観と客観を完全に切り離して考えていることは正しいのかどうか。西洋ではその時まで伝統的に考えられていたその概念にハイデガーは挑んでいきます。
周りにある客観的(と言われている)存在として、事物や他人がありますが、それぞれについて考察をしていきます。結構それぞれ長くなるので、まず今回は事物についてです。
事物については、ハイデガーは自分たちの身の回りを囲む環境世界についての、世界の見方を用いて説明していきます。
この環境世界というのは、ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)というエストニア出身の動物学者の考え方の影響を受けたとされています。*3
環境世界というのミツバチを例にとり、以下のように紹介されています。
蜜蜂は、それぞれ決まった花に向かって飛んでいき、その花の蜜を決まった量だけ吸い、決まった場所へと帰っていくよう、その振る舞いが常に方向付けられており、そのパターンから逸脱することはない。(*3より引用)
要するに閉じた環境世界で常に生きているということになります。(下図)
この環境世界という身の回りの状況を考えてみると、ミツバチに対して人間の環境世界は自分のその時々に応じて変わっていくことがわかります。私の場合、ざっくりした例で言えば、台所に立つときはキッチンや包丁、まな板、フライパン、シンク、ガスコンロといった道具のある環境世界で料理をしますし、病院に仕事に行ったら、パソコンや診察道具、注射針などの道具のある環境世界で仕事をします。その都度、場に応じた道具と関係を持ちながら生活していくわけです。
こうした環境世界という視点で、自分の周りにある事物を考えてみると、周りの物がそれだけで存在している単なる客観的存在ではないことが指摘できます。例えば、包丁を客観的に記述しようとすると「金属製の鋭利な刃物で20cm前後のサイズがあって、、、」というような説明になりますが、実際使うときにはそんなことは考えず、ただ野菜や肉を切るという目的に沿って、使いやすい・使いにくいなどの観点で見ています。このように道具を捉えるのがハイデガーのいう道具存在という概念です。
実際の『存在と時間』の例ではないですが、解説書のテレビを例にとった話がわかりやすいので紹介します*1。
この部屋にあるこのテレビは、客観的な「存在」としては「放送された電波を受信してひとびとの視聴に供するための機械」ということになる。更に、それは、その機種、機能、値段、等々が一般的に記述されうる。だが、「配慮的な気遣い」から見られたテレビは、あるときは、映りが悪くて見にくいテレビであったり、部屋の割に大きすぎてうっとうしい調度だったりする。それだけではない。今真夜中で、<私>が寝ていると怪しい物音がして、どう考えても賊が忍び込んでいる気配がする。、、、(中略)、、、<私>はこのテレビを、適当な重さをもち、投げつけることで相手にダメージを与えうるもの(=道具)として“認知”するかも知れない。
要するに、皆が理解できるような客観的な存在としての記述(シャープの42型プラズマテレビだよ、とか)とは異なり、環境世界における道具としての在り方はその都度、自分の状況によって変わりうる、という意味合いです。この中に出て来る「配慮的な気遣い」というのもハイデガー独特の術語で、 道具をそういった意味で理解するときの見方を指します。
身の回りにある道具は普段、特別その存在を意識することはありませんが、使っていく中で「このiPadのmagic keyboardは使いやすくて最高だな」とか思ったりして意識するわけです。これが壊れてしまうと「このキーボードほんとあかんな」というようにその状況に応じて、解釈は変わります。
こうするとまるで、自分の主観で道具が全て解釈されるような観念論と呼ばれる考えに近いような印象ですが、そういうわけでもないんです。
有意義連関
『存在と時間』ではハンマーを例にとって、道具存在同士の関連性が説明されます。ハンマーは釘を打つための道具であり、釘は塀を作るための道具であり、塀は家を建てるための道具であり、、、とそれぞれの道具は「〜のために」という目的を通じて関連します。このことを有意義連関と呼びます。
それぞれの道具は適所性と呼ばれる程よいところに落ち着くようになっており、客観的な事物の存在があって、それを人が全部主観的に決めるわけではありません。
ただ、道具だけの関係性で閉じているわけではなく、この有意義連関の先には必ず現存在が存在します。先程の例をもう一度見てみると、ハンマーは釘を打つための道具であり、釘は塀を作るための道具であり、塀は家を建てるための道具であり、家は人(現存在)が住むための道具、と最終的には現存在へとつながります。
それぞれの人によって、主観や客観だけとも言えない形で、それぞれ連関しながら作られている環境世界のことをハイデガーは世界性と呼びます。
さらにハイデガーはこの世界性の概念を空間認識にも広げていきます。長くなって来たので以降はまた次回の記事で書きます。
参考文献
*1 『ハイデガー入門』
*2『デカルト入門』
*4『存在と時間』